こんにちは。楠山です。
お元気でしょうか?
今、椅子に座って目を閉じておりました。窓を開けておりましたので、蝉の鳴き声がします。
先日のブログではトンボを見つけたのですが、この数日暑かったからでしょうか。
蝉もこのままでは終われない!と思ったのでしょう。
今月末はちょっとネタ切れをしてしまいましたので、先日のブログを振り返っておりました。
前のブログで先輩のことを書いておりましたのでその続き。
お付き合いください。
私の臨床研修医時代は卒業したときには自分の専門を決めて大部分の学生が入局をします。
学生時代のロッカーでは友人とポリクリ(病院での実習)の話や自分がどの進路に進むかを友人と結構熱く語っておりました。
国家試験に合格したときは嬉しかったですね。
しかしながら医師免許だけ持った24歳の男に臨床現場でできる事はありません。
点滴、動脈からの採血、お薬を処方すること、検査を組み立てること・・。
初めて体験することばかりで不安だらけなのです。
どうやって一つ一つの仕事の部品を自分の物にしていくのか?
上手い人のまねをするしか無いんですよね。
先日ある人に言われたのですが、「学ぶ」は「真似ぶ」から来た言葉なんだよ、と教えてもらいました。
初めて聞いた知識ですが、電撃に打たれたように「なるほど!」と納得しました。
下手の横好きでピアノを習っておりました。
レッスンを受けるということは先生の指導を受けて先生のまねをする部分が多いですよね。
よく考えたら勉強、特に数学も結局は数学者になって新しい理論を考え出さない限りは先人達が生み出してきた公式を使って問題を解いているじゃないですか。
でも技術を盗むことに関しては自分でやるしか無いように思います。
勿論、ピアノも数学も教え方が上手な先生と御縁ができれば真似を上手くする方法で教えてくれるので上手くなる可能性は高くなると思います。
ただ、最近教えてもらって上手くなるだけで良いのかな?と思うようになりました。
「こうするんだよ」と教えてもらって真似をするよりも「こっそり」先輩のやることを見て自分なりにやってみてから分からないことを教えてもらう事の方が上手くなるような気がします。
前者は受け身で教えてもらうこと、後者は自分から盗むことでしょうか。
どちらも大切なのですが、自分から盗むという行動をしておかないと教えてもらったことから発展性が無いように思います。
カテーテル手術や検査の時、私は有難いことに厳しく育ててもらったように思います。
検査室の外から大きな声で叱られたこともあります。
その時は悲しくなりましたが、今思えば大切な教訓であったとも思っています。
そのやり方は今では教育上マナー違反ということになっています。
ただ、我々の扱っている物が扱っている物ですので、厳しくなるのは仕方が無いことと考えています(大声を出さなくても「しばく」方法もありますが・・・)。
危険を感じると自然に手が止まるのは先輩方の教育ではなく調教の賜物です。
最初のうちは先輩の言われるがままにカテーテルを操作し、慣れてくるとカテーテルの世界の常識に従って仕事をしていきます。
カテーテルはパイロットと同じく確実・安全第一が最重要で仕事内容は似ているように思います。
検査のカテーテルは伊丹-成田間、手術は国際便でしょうか。
下手すりゃ月まで行ってこい!という手術もありますが、どの小さな検査でも検査・手術前の確認は疎かにできないですよね。
どれだけイメージしていても実際に手術をしてみると予想が外れることもあります。
そこからが手術の本領でしょうか。
あと緊急手術も出たとこ勝負の部分がありますが、天野先生が仰っていたようにどれだけ「いつも通りの手術」ができるかですね。
ピアノに似ているところがあるように思います。
ただこの仕事を続けていくと稀に手術に独創性を求められるときがあるように思います。
その場合は「教えてもらったこと無いから」は通用しないですよね。
自分が持っている経験と知識で何とかしなくてはいけません。
多分そんな時に教えてもらっただけなのか、自分で盗んできた技術・知識なのかが分かれるのだと思います。
教えてもらっただけの知識・技術と先輩の助けはあっても自分で勝ち取った知識・技術は全く異なった物のように思います。
誤解無きよう申し上げますと、最初からオリジナリティーを出そうとするのは間違いで、それは単なる「独りよがり」です。
まずは虚心坦懐に真似をするところから始まると思います。
ただ真似する人は上手に選ばないとダメですね。
よく考えたら医者人生の後半戦に入ろうとしているようです。
今の私は先輩が私にしてくれたように他の人が真似したくなるような診療・カテーテルをやり続けることが仕事になるのでしょうか。
まだまだ勉強は続くって感じです。